日々是好日

歴史

松平定信について

東美特別展では松平定信が所有していた
銀沃懸地塗玉装小さ刀が展示されています。
東京美術倶楽部 http://www.toobi.co.jp/
東美特別展 http://www.toobi.co.jp/special2016
日本刀剣 http://www.japansword.co.jp/
東美特別展にて日本刀剣のブースにて
伊波さんから丁寧に解説をいただきました
銀沃懸地塗玉装小さ刀
松平定信のものであったということで、
松平定信についてざっくりと!

松平定信は江戸時代中期に陸奥白河藩の第三代藩主でありました。
陸奥とは現代でいう東北地方でして
白河は福島県白河市になります。

徳川第八代将軍、徳川吉宗の孫にあたります。

松平定信は寛政の改革を行っています。

寛政の改革は江戸三大改革の一つでありまして、
他の改革は享保の改革、天保の改革です。

寛政の改革は風紀取締などによって、
幕府の財政を安定させる狙いがありました。
しかし、極端な思想統制令に走ったり、役人だけでなく庶民にまで倹約を求めたり
農民層が幕府を脅かすことにもなりかねなかったために、
成果はいまいち上がりませんでした。

しかし、松平定信は藩主としては良い政策を行っていたと評価されています。
老中というよりも藩主として藩政を行っているほうが向いていたのでしょう。
しかし、歴史学者の中では、老中としても評価をしている方は結構いらっしゃいます。
私も個人的には、老中としても良かったのではないかなと思っている口です。
ちょっと荒療治過ぎたのかもしれませんからね、当時にしては!

定信は詩歌にも親しみを持っていましたが、
浮世絵も好んでいたという話が伝わっています。
浮世絵師の鍬形蕙斎に「黒髪山縁起絵巻」を描かせています。
この点から、芸術にも何か秀でるものがあったのでしょう。

定信の面白いところは、
いろんなことをよく学んだというところです。
それが藩政に活きていたのかもしれません。
学ぶことが好きであったために、幕臣たちの学問への興味のなさには
とても落胆していたとも言われています。
興味をもたせるためにも、試験を奨励して
好成績だったものを登用するなどしていたそうです。

そして定信の真面目さがわかるのは、
来客などが訪れた際は贈り物や賄賂などで応接費の出費を補てんすることが多い時代に、
賄賂を一切受け取らなかったために赤字だったということです。
本当に、真面目な性格であったというのが想像できますよね

さて、東美特別展に展示されている、
銀沃懸地塗玉装小さ刀についてですが、
外国から来た者たちに会う時に見せるために所持していたと言われています。
作りもどことなく、サーベルっぽさもあるのですが、
刀身の透かし彫りや鞘の宝飾のバランスと美しさを考えると、
定信はやはり、美的感覚にも優れており、
展示されている銀沃懸地塗玉装小さ刀の状態がとても良いことからも、
非常に大事に持っていたということが想像できます。

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歴史   2016/10/14   chiyoasama

東京美術倶楽部特別展

2016/10/14~16までの3日間
特別展が行われます。
歴女が迫る!「第二十回東美特別展」、いよいよ今週末開催
先日、縁がありまして 案内役のお仕事をさせていただきました。
本当に素晴らしい美術品の数々、
そして丁寧な説明に、 時代、時代に思いを馳せながら
作品ひとつひとつに、魂を感じました。

ぜひ、皆さまには 東京美術倶楽部さん
そして出展社さんのギャラリーへ、
足を運んでいただいて、
時代の、魂の証人へなっていただけたらと思います。
そして、芸術の秋を楽しみながら、
歴史の一部に触れていただけたらと。

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歴史   2016/10/14   chiyoasama

乱と変の違い

あまりよく分かっていない、またはごっちゃにされてしまう、
乱と変の違いって何でしょうね?
乱と変の違いの話です。
これまた、覚えるときにごっちゃになって面倒だとか
難しいとかあると思うのですが、
これ、勝った負けたとか、規模はあんまり関係ないのです。
ネットでは、そういった説を書かれた方がいらっしゃるようですがね。

これについて書かれた論文があるそうで、
色々と調べてみたのですが、
何故なら、私もお話を書いたりするときに必要な知識ですし。

「乱」…世の乱れ、政治的な内乱、戦乱といったこと。

「変」…凶変、変事、政治変革などの陰謀事件など。

漢字から意味合いを想像しても良いのかもしれません。

私も学生時代の頃よりは、歴史からざっと遠ざかってしまっている部分があります。
旅をするのは好きですし、常にアンテナははっている方ですが、
それでも、学生の頃と比べたら
1日に割く時間は本当に減りました。
なので、時々、あれ?これってどっちだったっけ?みたいになるんですよね。
現役の学生さんで、歴史が得意ではない方は、
案外、この辺で意味が分からなくなったりごちゃごちゃになってしまうのかなとか思ったりしたので、
ちょっとネタにしてみました。

承久の乱や、本能寺の変を改めて調べてみて、
この違いを考えてみると、理解は深まる気がするんですけどね。

とりあえず、ざっくりとこの話はここまで。

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歴史   2016/01/30   chiyoasama

ざっくりと平安時代

平安時代ってこんなのというのをざっくりとメモ程度に

平安時代とは?

 

桓武天皇が都を平安京に移し、

そして鎌倉幕府が開くまでの時代を大雑把にさします。

 

この頃は、「物の怪」や「怨霊」といったものが出てきます。

貴族は、まじないや占いといったものに振り回されたりといったことが出てきます。

多くの人は、この時代のイメージは「陰陽師」かもしれませんね。

 

貴族の邸宅は寝殿造となっています。

 

貴族の女性の外出時の姿を知っていますか?

映画や本などでみたことがある方もいらっしゃるかもしれませんね。

虫垂れぎぬ姿というものです。

 

京都にある風俗博物館

こちらでは平安京のことを知ることが出来るそうで、

ホームページにもとても細かく記載されていました。

私もまた京都に行くときには訪れてみたいスポットです。

 

平安時代で有名な方と言えば、

藤原道長

これは小学生の社会科の教科書にも今でも出てくるのかな?

私が子供の頃、教科書に記載されていた覚えがあります。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

これがもっとも有名ですね。

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歴史   2015/11/20   chiyoasama

天文の乱

あまり知られてない伊達家三代に仕えた猛将鬼庭左月斎について、
いろいろと知るなら、これも理解しておきたい。
鬼庭左月斎の話をするならばこれにも少しふれておきたい。
「天文の乱」(てんぶんのらん)
または「洞の乱」(うつろのらん)と言います。

ざっくりというと、伊達の父子の争いです。

天文11年から17年までの6年間(1542年~1548年)
伊達氏当主・伊達稙宗と嫡男・晴宗父子間の内紛からの争乱です。

凄いですよね、父子で6年間の内紛(親子喧嘩)を勃発させる辺りが。

この父子と、多くの人が知っている伊達政宗との関係ですが、
稙宗が曾祖父
晴宗が祖父という関係です。

稙宗が十四代当主であり、彼が行ったのは、
近郊の武将たちに多くの子女を送り込んで勢力を拡大することです。
30年ほどで多くの群を獲得して、陸奥守護職となります。
そのため、南奥羽を従属させることに成功します。
(しかし後に、南奥羽と伊達家は人取橋の戦いが起こります)

婿となっていた、相馬に伊達領の一部を与えようとしたり、
伊達家の三男を上杉家に養子にといかせようとしたことに、
嫡男の晴宗が反対したことにより、この天文の乱になりました。

この時に、鬼庭は2000石の加増。
晴宗方についたことにより長井郡川井城主となることになりました。
左月斎(良直)の名義ではなく、この頃はまだ左月斎の父、鬼庭元実の名前で記録が残っています。

結果的に、天文の乱によって、抑え込んでいたものたちを大名として独立させてしまい
伊達家は一気に衰えてしまいます。
また伊達家中も当然、落ち着かず、
この天文の乱の一件がきちんと落ち着いたのは、
伊達輝宗(伊達政宗の父)の代となるわけです。

輝宗が相当な苦労人であったことが窺い知れます。

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歴史   2015/11/20   chiyoasama

鬼庭左月斎について

鬼庭左月斎は結構な猛将なのに、もっとこう評価が高かったり評価されてよいと思う…。

ことあるごとに、好きな武将は「鬼庭左月斎」と公言しています、千代さんです。

さて、鬼庭左月斎こと、鬼庭良直。

左月斎というのは隠居してからなんです。

 

ちなみに、息子は伊達三傑に名を連ねる、

鬼庭綱元。

 

伊達三傑というのは、

 

・智の片倉小十郎

 

・武の伊達成実(しげざね)

 

・政の鬼庭綱元

 

この三人のことを表します。

 

さて、左月斎。

もともとは、鬼庭は家格もそんなでもありませんでしたが、

伊達晴宗の代から、取り立ててもらうことが増え、

輝宗のころには評定役となりました。

 

伊達政宗も当然、左月斎の手腕を高く評価しています。

 

だからこそ、人取橋の戦いでの「金色の采配」です。

 

人取橋の戦いでは、伊達軍VS南奥州連合軍で、

戦力も7000VS35000という大きな差での戦いでした。

 

左月斎は、敗走となる際に、

政宗を逃がすために「殿」をつとめました。

殿(しんがり)というのは、最後に残って敵を食い止める役割です。

一歩間違えたら討ち死にします。

 

左月斎は、政宗のために、70を過ぎた身でありながら、

200人の首を討ちとり、見事、殿としての務めを果たして討ち死にしました。

 

一説ですと、老齢のため甲冑も身に着けられず、

黄綿の帽子で、挑んだと。

そして200人の首を討ちとるという。

単独ではないと思いますが、おそらく左月斎が指揮していた隊でトータルでだとも思いますが、

それでも、すごいことだと思うんですよ。

現代と比較したときに。

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歴史   2015/10/31   chiyoasama

伊勢神宮:おかげ犬の話

伊勢神宮へのお参りに、犬も向かうという…

江戸時代の後期の話。

 

伊勢神宮へのお参りは時折ブームを迎えます。

だいたい60年ぐらいごとに。

江戸時代の後期にもそんなブームがありました。

 

おかげ参りという言葉がありますが、

これは、奉公人が主人に内緒で、子供が親に無断で...ということもあったからです。

当時は、伊勢神宮へお参りするというときは、所持金が少なくても、

沿道で施しを受けることもできました。

 

しかし、伊勢へお参りに行きたくても、それが出来ない方もいらっしゃいました。

そんな方たちは、自分たちが飼っている犬に、

注連縄、お金を括り付けて、

集団で行かれる方に、自分の代わりにと犬を連れて行ってもらう人もいました。

こうした犬は、「おかげ犬」と呼ばれています。

 

こうした犬を見かけるたびに、人々は

「立派なことをしている犬だ」と、道中、食事を与えたり、

宿に泊めてあげたり、

自分たちのお金をわけてあげて括り付けてあげたりと、

お金を入れた袋が重くなってくると、誰かが両替してあげたりとしていました。

 

伊勢神宮の神官は、そうした犬がたどり着くと、

お札を入れて、送り返すといったことをしていたそうです。


今は交通も発達しましたから、誰でも行こうと思えば行くことが出来ます。

昔は、交通も発達しているわけではありませんから、

人に託したり、犬に託したりして、

お参りを代わりにしてもらうといったこともあったわけです。

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歴史   2015/10/30   chiyoasama

ざっくりとした小早川秀秋の話

以前に小早川秀秋で台本を書きましたが、
結局作品とならなさそうなので、そのうち朗読劇化します…
小早川秀秋、
裏切り者のイメージが強いですが、
彼の場合は、自分や誰かを信じるより、
流されるまま生きるしかなかったのでしょう。

小早川秀秋は、秀吉の正室、ねねの兄、
木下家定の子供なのですが、
秀吉の養子になり、秀吉が嫡男誕生後は、
小早川隆景の養子となります。
秀秋は、処刑された秀次のようにはならずにすみましたが、
今でいう思春期の頃に父親が、コロコロかわり
命が危ういかもという状況でしたから、
精神的に不安定に陥りやすいのも想像出来ます。

そのため、早いうちから酒に溺れ
酒により内臓疾患を患い、
たった21歳でその生涯を閉じました。
酒のために借金もしていた。
酒で身を滅ぼした人ですが、
環境を考えたら、そうしないとやっていけなかったとも言えるかもしれません。

しかし、小早川秀秋の幼少期は、
他の武将と少し違います。
彼は蹴鞠や舞と、芸事に優れており、
なおかつ、貧しい者には施しを与える心の優しい人だったということです。

今でいう家庭環境が、安定さえしていれば、
彼は領民に愛された大名だったかもしれません。
 

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歴史   2015/10/07   chiyoasama